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22年03月31日

★42年間のアメリカ生活、そして帰国 Part1

スノーベリー

 

  この章を今は亡き母に捧げます。たくさんの愛を有難う。

 

Part 1

 

私は昨年の12月4日、42年間暮らした米国から帰国した。今回の帰国はコロナ禍の中、大変なことがいろいろあった。出国72時間以内のPCR検査の陰性証明書を取得すること、羽田空港内でのコロナ予防に関する種々のテーブルへの長い行列、唾液テスト、2週間の自宅待機等など。35年間一緒に住んだパートナーのマーガレットが2020年の8月子宮癌で亡くなった。アメリカに子供も家族もいない私はマーガレットが亡くなったら日本に帰ろうと思っていた。彼女は私より6歳上だから、私が残される可能性は大だった。私は女だけの4人姉妹の末っ子だが、すぐ上の三姉が、「一人になったらいつでも帰って来てうちで暮らしていいよ。夫もいいって言ってるから」と言っていた。

 

                                    帰国までの大仕事

 

長年住んだアメリカを引き払うには、やらなければならないことがたくさんあった。大仕事は家を売ること。その準備として最低限のものを残してすべて整理しなければならない。一番大切なものだけを日本に送り、家具など売れるものは売り、他はすべて友人、知人にあげたり、寄付に出したりした。中古の品物をオンラインで売るサイトがある。商品の写真を撮り、サイズ、値段を記入する。やり方はドイツ出身のリンダが教えてくれた。以前はテクノロジーに精通しているマーガレットに完全に頼っていた。私は55歳以上の人しか住めないシニアハウス(アパートでは無く一戸建ての家)のコミュニティに住んでいた。205軒の家があった。同じコミュニティに住んでいたリンダは1年前、ワシントン州キング郡所有のシニアハウスに移っていた。家賃がここの半額なのだ。私のところから車で15分位かかる。彼女はマーガレットの友達で、よく電話で一時間以上も話し合っていた。二人はどちらも頑固なところと、西洋医学を疑っているところなどで共通点があった。ある時マーガレットがドイツの食料品店に行った時、“I am stubborn and I am a German”(私はドイツ人で頑固である)と書かれたT-シャツが売られていたのを見つけた。ドイツ人は自分達でも頑固であることを認めているようだ。二人の共通点はまだあった。リンダは家の修理などほとんど自分でやる。マーガレットも“男仕事”と呼ばれる仕事がいろいろできた。

 

リンダは77歳位で(2年前)腰が悪く、歩くこともままならないのに、セメントを買ってきて、ドライブウェイを修理したり、家の内外のペンキ塗りも梯子を使ってやってのけた。高いところだけは娘さんにやってもらったと後で白状したが。いつも何かにチャレンジしている。廃材を利用してベンチを作り道路の向かい側のコミュニティのパークに寄付したら、マネージャーから勝手にそんな所に置くなと𠮟られたり、マネージャーとは争いが絶えなかった。マーガレットは彼女のことを “straight butch”(男っぽい異性愛者)と陰で言っていた。お庭もいつも世話が行き届いていて、鉢植えの花々を綺麗に植えていた。手製のアートワークも庭に飾られていた。刺繍やビーズワークの趣味もある。彼女はオンラインのサイトを使って不要になったものを絶えず売っていた。アメリカ人とは違うヨーロッパ人の生き方を彼女から教わった。質素、節約、働き者など。今は一人暮らしになった私は、“Strangers(見ず知らずの人)が家に入ってくるのは不安なのよ” と言うと、彼女は誰かが売り物を見に来る時は私の家に来てくれた。実際私の周りには、そのサイトは危険だから使わないという人もいた。犯罪事件があったからだ。イケアの洋服入れ、ソファーベッドはすぐ売れた。買いに来た人達も感じのいい人達だった。売れない物は無料であげていると言うと、リンダは少しでもいいからお金を請求するようにアドバイスをして来た。

 

リンダの驚くべきもう一つのエピソードがある。彼女自身の引っ越しの際、経費節約の為、業者を雇わないで、Home Depot(日本のホームセンターのような店)で日雇いの仕事を探して店の外で立っているメキシコ人の男性を2人位雇った。バンを借り、自分の車にも荷物を積んで引っ越しを済ませた。何十回も往復したそうだ。あの頑張りの精神はすごいなーと思う。後でくたくたに疲れたとは言っていたが。私の売り物のベッド脇に置くサイドテーブルと食器棚はコミュニティのフェイスブックで宣伝したらすぐ売れた。コロナ禍の中、寄付をする作業も不便が伴った。平時だと車に載せていけばThrift Store (古着、中古家具、その他諸々の生活に必要なありとあらゆる物が売っている。店は大きく、アメリカ中至るところにこうした店がある)の係員が車から降ろすのを手伝ってくれるが、コロナ禍では、自分でやらなければならない。本は受け取らないこともあったし、図書館でも断られた。平時は大きい家具を取りに来て、家の中に入ってきて運んでくれた業者も、カーポートかガラージに置くように言った。 

 

私は2018年から腰と膝が悪くなり、急に重いものが何も持てなくなった。庭仕事はもちろん、観葉植物の植え替えなども大変になって来た。アルバムさえ重く感じるようになった。助けを求めればヘルプはいつもあった。同じブロックに住む日系人3世の男性、テリーは信頼できる人柄で、いろんなことを助けてくれた。最後に友達のキムの家に、出国までの一か月余り住むことになった時の引っ越しも彼が手伝ってくれた。一時間以上も運転する距離だったが、快く引き受けてくれた。リンダがもう一つ手伝ってくれたことは税金申告。彼女はリタイアする前は税金に関する仕事をしていた。お金を払うと言ったのに受け取らず、金銭的にも、時間にも気前がよかった。必要以上に心配性の私に、「最後には、すべては上手くいくわよ。あなたは見えない力によって守られているよ…」と、キリスト教の教えのようなことを言って私を励ましてくれた。

 

年を取ると、日本で住みたくなるよと、長期間アメリカに住む日本人によく言われていたが、私もそうなっていた。食べ物はやはり日本が一番おいしいとアメリカに住んでいる大抵の日本人は思っている。アメリカのスイーツはやたら甘すぎて味にデリカシーが無い。今回日本に帰ってきて和菓子、洋菓子のおいしさに舌鼓を打つ。日本の図書館で豊富な蔵書から選んで本をたくさん読みたい。日本のお風呂は素晴らしい。私はアメリカではシァワーで済ませていた。他に、洋服、下着、靴、靴下に至るまで自分に合うサイズが無い。上着、ブラウス、コートは女性用が買えたが、ズボンは女性用では、まず私のサイズは見つからない。平均的アメリカ女性の体形と全く違うのだ。お尻と腿の大きさが大きく違う。私が自分に合うサイズをみつけたのはboysの洋服売り場だった。Target(比較的安価な総合的なものを売っているチェーン店)でズボン、シャツをよく買った。子供用なので値段も安い。他にはThrift Storeの婦人用とboysの売り場で買っていた。日本に一時帰国する度に下着やズボンを買ったり、姉達から古着をもらったりしていた。でもレズビアンの私としては洋服の趣味が姉達と異なっていて、せっかく、くれると言ったのに断る場合も多かった。42年間の米国滞在の間に16回日本に帰っている。帰国はいつもリフレッシュできる楽しい旅だった。

(続く)

 

 

“★42年間のアメリカ生活、そして帰国 Part1” への2件のフィードバック

  1. ユミ より:

    スノーベリーさん, 色々大変でしたね〜!リンダさんが言うようにスノーベリーさんは何かに守られていると思います。きっと全てうまくいきます!

    • スノーベリー より:

      ユミさん、有難う。そうですね。あなたの言う通りです。今回の日本帰国はマーガレットの病気、死、アメリカを引き払って日本に帰る準備と、私の人生一番の試練でした。今帰国後4カ月経ち、ようやく日本への転換の煩雑なビジネスもすべて終わり、日本の生活にも慣れてきて、日本の桜を楽しんでいます。リンダさんからのメールで、アメリカは物価が高くなり、ガソリン代も前代未聞の値上がりで、外食もままならなくなってきたそうです。それで彼女は野菜を鉢に植えたそうです。そして、自分は今まで一度も飢えたという体験をしたことがないからラッキーだ、この位何でもないと、相変らず根性があります。私も見習わなければ。戦争を自国で体験したヨーロッパ人と体験してないアメリカ人の違いをここでも感じます。

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