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2017年8月19日  

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「あんなこと、こんな話題、今も聞こえる女性たちの声」

★新シリーズ・なつかしのれ組通信から

 

「40年目のカムアウト」

 RIN

 私は、長い間母に頼られてきた。家では、「家長」で稼ぎ頭の父がすべての力を握っていた。父がよく母や兄に怒鳴っていたのを覚えている。親の権威を振りかざし、命令と文句の多い父のやり方には、中学生の頃から反感を抱いてきた。子供たちが成長するにつれ、母と私は、父をこきおろすことで女同士の連帯を強め、父は、仕事に没頭していた。

 

私の唯一の話し相手だった3歳下の妹は、初恋の人へ、さっさと嫁いでいったので、その後は母との時間が多くなった。母は、自分の結婚の不当たりを棚に上げ、世間一般の母親たちと同じように、私にも結婚を期待していた。30歳を過ぎても、私にその気配が一向にないので、友達に頼んでお見合いの話を持って来たりした。私は、同姓の友達と付き合いはじめるといつでも母に紹介した。母は、愛想の良い方ではなかったが、最初は、きちんと挨拶してくれた。

 

しかし私が一人の人と集中的に会っていたり、長電話をしていたりすると、母は、何かと機嫌が悪くなった。妹が家にいたころ、妹と私が秘密の話をしている時もそうだった。娘たちの気が自分に向いてないことに、母は敏感だったが、私のレズビアン性には気がつかなかったようだ。自分の本当の気持ちを語れず、なんとなく漂う違和感のなかで、私はいつも沈黙を守った。あまりの息苦しさに何度か<あのォ・・・わたし・・・>と喉まで声が出かかったが、やはり言えなかった。理由は沢山あった。

 

一番身近な母へのカムアウトは、そう生易しいものではない。期待を裏切り、母の信頼を裏切りたくない。余計な心配をかけたくない。何よりも自分の中でレズビアンとしてやっていける自信がなかった。女友達には言えても、親に言える程の勇気は、湧いてこなかった。<恋人との関係を築くためなら親にどう思われてもよい>とは思えなかった。しかし、ついに私も<母へのカムアウト>しなければならない状況に立たされた。

 

何人目かの恋人に出遭って、いつもの様に長電話、デート、外泊と、行ったり来たりしているうちに、いつの間にか、恋人の所に自分の居場所ができて、気がついたら一緒に住みたいね!ということに進展していた。私にとっては、生活の相手が母から恋人に変わっただけだったが、母にとっては、心の拠り所である娘がいなくなったことが、どんなに淋しかったことか・・・・。私も、<家を出て、自活をしたい!>とよく母に話していたけれど、いざ現実になるとなかなか難しい。

 

母には、<結婚は、したくない。気の会った女友達と共同生活をして自分たちの道を切り開いて行きたい。><女同士で生活することは、アメリカやヨーロッパの開放された女たちの間で、流行っていることで不思議でも、異常でも何でもありません。>等と言って母を説得してみた。母は、半信半疑で<一人で住むならわかるけど、何でまた、若い女の人と暮らすんだべェ。わかんねェ・・・・>と言って腑に落ちない様子だった。相手が男であれば、きっとおお喜びしただろう。女の人を好きになるだけでなく、一緒に住むということで、こんなにも波風がたつものなのか?鬼のようになって怒る私の勢いに負け、その後の母は、妹に愚痴をこぼすようになった。

 

以来、母はTELをしてきても自分の体調の悪さを訴えるだけで、こちらの生活振りを聞こうとはしなかった。私は、母の様子を見に時々帰った。私達家族3人で行くこともあった。私達の生活ぶりを見てもらうことが、母に理解してもらうことが、一番の近道だと思った。話をしたり、食事をしたりするうちに母の気持ちも和らいだようだった。そして母をさらに喜ばせようと、温泉行きをプランした。ところがいざ蓋をあけてみると母をかんかんに怒らせてしまい大失敗に終わった。

 

母との温泉行きは久しぶりのことだった。1日目は、私と母と二人で泊まった。このチャンスにわたしはなんとかレズビアン宣言をしようと考えていた。ロマンスカーの中で母は、開口一番、私のラフな服装にクレームをつけた。共同生活をはじめて以来、私は身なりにあまり気を使わなくなっていた。私は、これまでの生活でいかに父が威張り、母がいかに耐えてきたかに話を切り替え、それに較べ私達の共同生活が、いかに自由で楽しいかを唱えた。一日中、私の考えを押しつけられ、母は、疲れ果てたように眠ってしまった。母は好きな温泉につかって、ただただのんびりしたかったのだろう。私も、自分を正当化するのに必死だった。

 

二日目、恋人と子供が嬉しそうにやって来た。一息ついて、三人でお茶を飲んでる間、母は宿で休んでいた。私達が宿に帰ると、母は、待ちくたびれて<ムッ!>としていたが、夕食は、気をとりなおして和やかにすんだ。夕食後、私達三人組は、いい気分になって、お風呂でゆっくり遊んでしまった。せっかちな母は先に上がり、部屋で不機嫌な様子で待っていた。四人部屋でも、結果的には母が一人でポツンとしている時間が多かった。母は、すっかり機嫌が悪くなり、あまり会話もしないまま床についた。せっかく娘と温泉に来ても、仲間はずれになっていると感じたのでしょう。ため息ばかりが聞こえてきた。翌日母は私達の誘いを断って一人で帰っていった。

 

それから数日後、母がオモーイ声で電話をかけてきた。「親より他人に気を使ってばかりいて、お前たちは、一体何なんだー!箱根では、本当に淋しい思いをしたけれど、帰りの電車で乗り合わせた人に親切にしてもらったよ。親をバカにすんにもほどがある。よーく考えてごらん、自分のしたことを!」母の声は、震えていた。私は、一瞬、胸がつまった。と同時に前から考えていたセリフが堰を切って溢れだした。

 

「私達は、恋愛関係。言葉で言うならレズビアン!日本では<ポルノのイメージ>しかないけれど、私はもっと真剣!二〇歳過ぎてから、お母さんに会わせた「親友」は、みんな恋人だった。知らないのはお母さんだけ。自分の感性を大切にしてきただけで病気でも何でもないから心配しないで欲しい。今や世界のあちらこちらで、女同士で暮らしている。私達は、これからも同じような状況の人たちと助け合っていきたい。もし迷惑なら今後一切、家の敷居はまたがないからね。」

 

それは、思いがけない<宣戦布告>だった。母は「あたしらの時代には、そんな人いなかった。そんな話聞いたこともないし、よく解らない。」と電話を切った。私は、内心ホッとした。後は、どうなってもいいと思った。長い間、言えずにいたことを一気に言ってしまったことは、最高に気持ちが良かった!

 

その後一週間位経って、母から用事の電話があった。レズビアンのコメントは、特別なかったが、声は平静だった。私達は、また行き来するようになり、関係は、少しずつ回復していった。半年後、母は、思い腰を上げて私達の住まいに遊びにきてくれた。恋人のお母さんとも挨拶を交わし、好きな和食を美味しそうに食べて、笑顔で帰っていった。翌年の暮れ、母が大病で二ヶ月入院した時は私達もよくお見舞いに行った。

 

人は気持ちで行動するもの、母の偏見だけを受けていたらこんなに一生懸命看病もやれなかったかもしれない。はじめは娘の話に聞く耳を持たず、世間の見方に合わせていた母も、それ以来私が、女の人と暮らすことを自然に受け止めてくれるようになった。

 

異性愛社会の価値観が染み込んでいる母にレズビアンの存在を解ってもらうには、それ相当の年数がかかるのかも知れない。やはり生活を見せて慣れてもらうしかないのかも知れない。言い続けていかないと、無知からくる偏見が、すぐ顔を出す。「何が原因だべぇ?」「誰がうつしたんだべぇ?」「最初に出てきた男が悪かったんだべか?」「ご先祖さまの供養をしてないからだべか?」等など。

 

それでも、母の前で平気でレズビアンという言葉を使えるようになったことは、進歩だと思う。偏見は少しは薄まっただろうし、お互いに言い合える関係になったことが最大の収穫だと言える。

 

<れスタ>の社会に向けた動きにもこれと同じようなことではないだろうか!!

 

(初出 れ組通信NO.17 1988年8月1日発行)

★上記の文章は初出の原稿に筆者のRINさんが加筆訂正したものです。

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