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22年06月06日

★カミングアウト・ストーリー  Part 1

スノーベリー

シアトルのシニア・レズビアン・グループ

 

昨年の12月に帰国した私は42年間も住んだアメリカのシニア・レズビアン・グループとも関わって行きたいと思った。日本に来てからの私のカルチャー・ショックのことや、日本の紹介など時々インターネットのメーリング・リストに文章を書いている。5月のダイク・ウィークエンド(DWE)で「アメリカのフォーク・ミュージック」のワークショップをズームでやったことも書いた。音楽や歌好きの友達や知り合いの何人かが、好意的なコメントを書いてくれた。れ組のホーム・ページは、書いている私にとっては読者が不明でコメントがあまり来ないのが不満だが、こちらはメーリング・リストという性格上か、文章を送るとコメントが、バンバン入ってくる。私が加わっているグループは全米にあるOLOC*(下に説明)から派生した、私が住んでいた地域のグループでPSOLOCと言う。PSとはPuget Sound(ピュージット・サウンド)の略であり、ワシントン州にある湾である。東岸にシアトル、南端にオリンピア(州都所在地)がある。アメリカはカミングアウトしているレズビアンの人口が多く、ピュージット・サウンドと呼ばれる地域の中にもシニア・レズビアンのグループがあちこちにあり、シアトルだけでも二つある。シアトルのちょっと北のボッセルという町にも一つ、南のタコマ市にもよく組織されたグループがある。

 

*Old Lesbians Organizing for Change。(社会改革を目的に組織されたシニア・レズビアン・グループ。原則としては60歳以上の人。敢えて“Old”と名乗っているのは差別用語だった”Dyke”という言葉をアメリカのレズビアン達が自分達を指す言葉として意図的に使い差別語では無くしたのと同じように、自らを”Old”と呼んでOldという言葉からくる偏見的なイメージを無くそうという積極的な意味がある。)

 

シアトル周辺のPSOLOCの人達は読書会(今のところズーム)があるし、レストランでの定期的な食事会もある。その他に“Over 40”というグループがある。40歳以上のレズビアンが対象で、私の記憶によれば、少なくとも35年以上続いている。40歳になると、「ああこれで、私も”over 40”のグループに入れる」と言っている人たちがいたのを思いだす。40歳になったことを嘆くのでは無く祝福できるグループである。20年後にはOLOCにも入れるし、アメリカのレズビアンにはサポートシステムがある。

 

私はメーリング・リストへの参加の他にズームでのミーティングにも出席している。私の友達と彼女の素敵なパートナーに会えるし、最近できたメル友にも会える。グループはALISS(Ageing lesbians in South Seattle)と言い、シアトル南部にあるシニア・センターをミーティングに使用している。月一度の定例会はそこで昼食を食べた後、2階の部屋でミーティングをする。対面とズームとどちらでも参加できる。他にはカード・ゲームをする会と、私が出席している隔週のポトラック(食べ物持ち寄りの食事会)の会。夕食の後、毎回違うテーマを決めて話し合う。今コロナ禍なのでズームだけでミーティングをやっており、私のように遠く離れた日本に住んでいる人でも参加できる。またシアトル周辺に住んでいるが、様々な理由でズームでの参加を希望する人にとっても都合がいい。コロナ禍、不便なことが沢山あるがズームの普及は画期的なことだと思う。コロナが大分収まっても、ズームの使用は続いていくのではないかと思われる。あちらは火曜の夜6時半で、私は水曜日の朝10時半なので、ポトラックと言う訳には行かないが、参加者の中には夕食を食べながら参加している人もいる。

 

 私のカミングアウト・ストーリー

 

前回の会のテーマは私が提案した「カミングアウト」だった。参加者は私も含めて6人で、4人は結婚歴があり、そのうち3人は子供、孫もいる。アメリカのシニア・レズビアンの人達には結婚歴のある人が非常に多い。結婚しなかったけど、子供を一人生んだという人もいる。日本とは大きく違う。やはり国が経済的に豊かで多様性が受け入れられる国柄だからだと思う。彼女たちのカミングアウト・ストーリーはそれぞれに興味深かった。このミーティングで私も自分のカミングアウトについて語ったので、文章に書いてみたくなった。私は話すのが得意でなく、英語となるとよけい、あちこち端折ったりして話すので、後でじっくり考えると、あれも言えばよかった、これも言えばよかったと後悔する。だから私が本当に言いたかったことを自分のペースで考え、推敲を重ねて書きたいと思った。それを書くには、高校時代に出会った人とのことから始めなければならない。彼女との関係は、28年も前、れ組通信が紙で発行されていた時詳細に渡って書いた。(ある初恋(上)(下)、れ組通信No. 85&86、1994年5月3日&5月31日発行)。あれから28年も経ったのかと、あっという間だったような年月の速さに愕然とする。私ももう71歳になってしまった。これから私の人生が終わる日まで悔いのないように生きたいと思う。

 

小学校の女の先生

 

小学校3、4年生の時担当だった女の先生が好きだったという淡い記憶がある。クラスメートの女の子と一緒に教員室まで先生を迎えに行き、先生の教材を持ってあげたりして、教室まで一緒に歩いて帰ってくるのが楽しい思い出として残っている。私は超恥ずかしがり屋だったから、一緒に行った女の子に誘われてついて行ったのだと思う。綺麗な先生で30代半ば位だった。その先生は、以前は中学校の先生だったが、男子学生に意地悪をされて、小学校に転校して来たのだと人の噂で聞いた。私の好きなその先生が教室で男の子からセクハラを受けていた。先生が教壇に座っていると、男の子達が(多分2―3人だったと思う)にやにやしながら、先生に気づかれないように床に座り込んで、先生のスカートの中を覗いていた。ズボンを履いている先生が生徒の勉強を教室を廻って見ていた。上半身を屈めて、生徒の勉強を見ていると、その同じ男の子と仲間が先生のお尻に、ほとんど触れるばかりに手の平を近づけ触る真似をしていた。わたしはとても不快な気持ちを抱いたが、同時にどこか自分の中で性的なものを感じている感覚を覚えている。その時はまだそれが何だったのか分からなかったが、大人になって思うと、それが私の中で同性に惹かれる性癖に気が付いた最初の体験だと思う。男の子というものは、小学校4年生でもう、女性を性的対象物として, レイピストの目で見ているのだと言う現実に唖然とする。私はレズビアンに生まれてよかったと、こういう時は思うのだ。男というものは性的に信頼できない性だと思う。

 

  高校での出会い

 

中学の時女の子をちょっと好きだと思ったこともあったが、本格的に好きになったのは高校一年の時だった。男の子に惹かれたことはなかった。その年の十月、駅の改札口のあたりで帰りの汽車を待っていた。普段はクラスの女友達何人かで駅まで歩いて行くのだが、その日私は一人だった。誰か知っている人はいないかと駅の構内を見ていた。その時、左手の方のベンチに座り、こちらを見ている二年生の女子生徒と目が合った。第一印象では彼女を特に美人だとか思わなかったが、目鼻立ちがはっきりした個性のある顔で、人を惹きつける、吸い寄せるような目と、内から発しているエネルギーを感じ心に留めるものがあった。あんな感じの女生徒を見たのは初めてだった。運動会の日、紺のショートパンツと白いシャツ姿のその人を見つけた。スラッと伸びた足を背後から見ていた。彼女は背が高かった。「二の五 吉田」と書いてある名札をつけていた。全校のクラスの名前が壁に張り出されるような時、二年五組の名簿を調べ「吉田久美子」という名前だと知った。番地までは載っていなかったが、住所は載っていて記憶した。私たちの高校がある郡とは違う郡から来ているのだと知った。久美子の下駄箱の場所を見つけた。朝学校へ行くとまずそこを見た。久美子の靴を見ると安心し、運動靴だけの日は病気でもしたかと心配した。

 

また久美子に会ったのは、同じ月の中旬頃だった。放課後、同級生の友達と駅前通りにある本屋に寄っていた。もうそろそろ汽車の時間が迫って来ていたので階段の方へ歩いて行き、降り始めた時だった。久美子がまた現れたのだ。私のすぐ近くに佇んで微笑み、私の行動をじっと見ているのだ。「この人は私のことを好きなのかしら?」と心の中で強く感じ、その日以来、忘れられない人となってしまった。その後何度か駅や校舎で久美子と会った。久美子が朝、背の低い友達の肩に手をかけ、駅から学校への道を歩いているのを見かけたこともあった。私には大胆な行動に思えた。久美子の私を見る時の目はどこか愁いを含んだ目つきで、私に「この人は女の子が好きなのだ・・・」と感じさせた。久美子が私の心の中に入り、いつも彼女のことを考えていた。夜寝るときは、学校で彼女に遭遇した時の場面を思い起こし、その時のことを再現しながら眠りに着いた。

 

久美子への思いも自分一人の世界のことだったので、二年生になると、もう一人の三年生の内田陽子という生徒を心に留めて気にしていた。私は年上が好みだった。陽子は久美子より明るい感じの美少女だった。孤独な感じは無くいつも誰か友達といた。男子学生は皆色彩が無く殺風景に見えた。私は雪深い田舎で育ったので、当時は女子校などなかったが、女子校にでも入っていたら私の中学・高校生活はもっと色彩豊かになったのだろうなーと思う。中学生頃から母が「好きな子はいないの?」と私に聞き続け、「いないよ・・・」と言うと、「この子はまだ子供で、好きな男の子もいない。本当に奥手なんだから・・・」と言って笑った。私は四人姉妹の末っ子だったから、母は私をいつまでも子供扱いしていた。女の子達が男のことを話している時、話しに加われない寂しさを感じ、自分だけそういう気持ちが無いのではないか、どこかオカシイのではないかという感情を持ち始めていた。私の久美子への気持ちは性的な気持ちも含まれているということが分かる年齢になっていた。でもひょっとしたら、また私も変わるかも知れない。大学生になって東京に出て行ったら、新しい出会いがあるだろうし・・・・・。東京から姉達が帰って来る時、持って来る女性週刊誌の中に、東京のレズビアン・バーの様子がイラスト付きで紹介されていて、家族に隠れて読んだ。私も東京に出たらこういうところに行ってみたいような、怖いような気持ちがあった。自分がこれからどういう風に変わって行くのか予想がつかなかった。

 

久美子とは一度も言葉をかけ合うこともなく、声をかける勇気も無く、彼女は卒業していなくなってしまった。もう一人のちょっと気になっていた陽子もいなくなって何だか寂しかった。しばらくは受験勉強に励み、東京に行ったら、ひょっとしたら私のような、女性が好きな人にも出会うかも知れないと未知の大都会での生活に漠然と期待をしていた。      (つづく)

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