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22年03月31日

★42年間のアメリカ生活、そして帰国 Part2

スノーベリー

(Part 2)

1984年、最初の一時帰国

 

私は1979年8月にSeattle Central Community Collegeに入学する為に渡米した。28歳だった。貧乏学生で、何と、最初の5年間帰国をしなかった。初めて帰国した時、望郷の思いに溢れ、飛行中、日本の少年合唱団が歌っている場面がスクリーンに放映されていて、涙が湧き出してきた。こんなにも私は望郷の念を持っていたのだと思った。1984年頃は日本への電話は高額で、一度も電話をかけたことも無かった。人間、あることを我慢していると、手に入れた時の喜びは何倍にもなるという心理を目の当たりに学んだ。母との手紙交換は2週間に1度位の間隔で始まったが、次第に月に1度位の割合で落ち着き、母が高齢になり認知症になるまで続いた。たまに姉達からも手紙が届いた。友達からは日本のレズビアンのシンガーソングライターのコンサートのテープが送られてきて懐かしかった。

 

空港では埼玉に住む2人の姉の家族全員が迎えてくれた。私は日本にいた時は外資系の保険会社に勤めていて、おしゃれな二人の姉に影響されて、それなりにおしゃれだった。髪も長くしていた。だから変わり果てた私の姿を見て、出迎えた家族一同は驚いた。ジーンズに新品でもないシャツに上着姿。髪型はおかっぱ頭で前髪をたらしていて、眼鏡も嫌に大きいのをかけていた。おしゃれとは程遠い姿だった。しかも大きなバックパック(登山の時山で寝泊まりする為の大きいもの)を背負っていた。次姉は母が私の姿を見てショックを受けないように、事前に警告しておいた。

 

母のこと

 

大正6年(1917年)生まれの母は大戦中、旅順陸軍病院に勤めていた。患者として来た中尉から短歌を教えてもらった。父が昭和53年に直腸癌で亡くなってから(享年64歳)、母は書くことに目覚め、二つの高齢者向け同人誌に文章を投稿していた。高等小学校しか出ていないので、文章をもっと磨く為に、NHKの通信講座に自分が書いた文章を送り添削してもらっていた。短歌を初めて習った時のことを「短歌と出逢う」という題で書いている。

 

父は大正3年(1914年)生まれで文学青年だった。10代の頃から小説や短歌を地方の雑誌に投稿し賞品として石鹸や日用雑貨を貰い両親を助けていた。自分で短編小説を装丁し、表紙に絵を書き、字も上手だった。全国屈指の雪深い土地の貧農の農家の三男で中学に行きたかったのに、高等小学校までしか行っていないことが、ずっとコンプレックスになっていた。地元の村役場に勤めていたが、昭和30年町村合併になり、町役場に勤めるようになり、その後要職についた。地元に短歌人を増やすことが夢だった。土曜の午後、日曜日はほとんど家に居ず、あちこちの短歌会に招かれ歌の指導を行っていた。母は新婚生活とはこんなものかと密かに思っていた。二人はお見合いだったが、短歌で結ばれたのだそうだ。

 

私が日本に初めて帰った時を描写した母の文章の一部をここに紹介してみよう。

 

リュック背負って (昭和62年)

 

アメリカに行った娘が5年ぶりに帰って来る。昭和59年11月10日頃であった。駅に迎えに出た。あふれる想いを脹らませ娘を待った。電車が近づいてくる。いよいよ到着!娘の姿は見当たらない。遅れたのかなと思っていると、大きなリュックを背負ってジーパン姿の娘が立っていた。「お母さんこんにちは。思ったより若いじゃない。」「もっといい恰好してくるかと思ったよ。」アメリカ帰りの洗練されたところはなかった。この瘦身に蓄積されたであろう知識を思いつつ車に乗った。

家に着くと疲れも見せない娘は、草の道を歩きたいと言った。白く靡く(なびく)すすきの穂がいざなうごとく情感を添え、午後の淡い光の中に川の流れが浅くゆく。「いいなあ!」娘は叫んで残り少ない秋草の道を踏み分けて歩いた。翌日は、夢にまで見たという我が家の眼前に聳え立つ美しい山に登ることになり、私も同行した。登り始めた頃、雨がポツポツ降り出した。紅葉と緑が滴るような彩(いろどり)を見せ,なだり(斜面)も谷も、のしかかるように目の前に迫り、この圧巻に息をのむようであった。「お母さん大丈夫?疲れない?」 娘の声を聞き、姿を見、充足し、疲れも覚えなかった……3ヶ月近く日本滞在中、私と旅をし、その後一人で九州の山に登り、再びアメリカに帰った。2度とアメリカにやるまいと思ったが、娘と旅をし、諦めた。アメリカで娘は自営業で細々と生計を立てている。飾らず、内面的に掘り下げて生きる娘に人生を学ぶ事が多い。 

 

刻々と電車はレールにひびききて吾(われ)と子の距離近づきてくる

 

とどめおく何もなければアメリカに娘を再びたたしめにけり

 

再会をつなぐがごとく置き去りのギターは常に娘の影まとう

 

 

楽しかった旅行

 

日本滞在中は、友人の若林さんが当時やっていた自然食品の店で住み込みのアルバイトをしたり、神楽さんもすぐ近くに住んでいて一緒に行動し、青春をしているという実感があり、すごく楽しかった。アメリカでは体験できなかった、密接な友達同士の触れ合いにすごく飢えていたのを感じた.神楽さんの関西の実家で一泊し、大阪や京都に住む神楽さんの友達に会った。その後関西の山の中に住むレズビアン・カップルを訪れ、泊まって来たこともいい思い出だ。カップルの一人はクラブなどで歌っていたことがあり、五輪真弓の”恋人よ“を美しい声で歌ってくれた。私も二つの歌を持ってきていた。

 

アメリカで人気がある黒人女性のみの5-6人からなるアカペラグル-プ,Sweet Honey In The Rockの ”Every Woman”が当時すごく気に入っていた。創始者はBernice Johnson Reaganで作曲家、学者、社会活動家でありレズビアンである。このグループは美しいハーモニーで、人種差別、女性差別、アフリカの歌、政治的なこと、社会的なことを歌っている。この歌はBernice Reagan作詞作曲である。日本語に自己流に訳して日本の友達の集まりの時、Holly Near(アメリカのシンガーソングライターで社会活動家。フェミニスト)の “Singing for our lives”と共に披露した。

”Every Woman” で私が気に入っている、繰り返しのコーラス部分の歌詞はこんな風だ。 

 

“Every woman who ever loved a woman, you oughta stand up and call her name,

Mama, Sister, Daughter, Lover…

Every woman whoever loved a woman

You oughta stand up and call her name”

 

(女を愛するすべての女たち、立ち上がりなさい、そしてその人たちの名まえを呼びなさい、お母さん、姉妹、娘、恋人の名前を・・・・) 一番では母への愛、二番は姉妹愛、三番は娘への愛、四番は女性の恋人がいることをさりげなく仄めかしている。女性に対して全幅なポジティブなエネルギーを熱い気持ちで注いでいる歌である。その後私が40歳のバースデーパーティーでこの歌を二人の友達、知人と英語でハーモニーをつけて歌ったことはとてもいい思い出として残っている。

 

関西のカップルの家で一泊した後、母と合流した。田舎者でほとんど旅行もしたことが無かった母とは初めての二人旅だった。静岡の温泉宿、中山道、飛騨高山に行った。高山に行った時、”学生の頃、Aさんとここに来たことがあるのよ“(Aは私の初恋の人)と言ったら短歌をたしなむ母は、歌を作った。私の昔の恋人の代名詞は変えられていた。つまり、相手が男性だったように偽装して書いていた。高山の田舎に当時住んでいた元同僚の友達の家にも母を伴って訪れた。高山から早朝始発のバスに乗った。霧が深い中をバスは山道を進んでいき、幻想の地に私達を運んでくれるような感激があった。友達が住む土地は山に囲まれ紅葉が素晴らしかった。母も喜んでくれた。

母と別れた後初めての一人旅をした。津和野、萩、広島、長崎、 阿蘇、高千穂などのユースホステルを利用した。高校生の時恋愛感情を抱き、私が大学生になった時勇気を振り絞って前述の彼女にラブレターを書いた。大学時代3年間付き合ったAさんは結婚して九州に住んでいた。その後大学を出て就職をした私は一度彼女を訪ねたことがあった。汽車が彼女の住む駅に向かっている時、いきなり会いに行って見ようかという衝動が起こったが、やはり止めておこうと思い留まった。突然訪ねて行って、平穏に暮らしているかも知れない彼女の人生を掻き乱さない方がいいだろうと思った。

 

3ヶ月あまりの日本滞在は楽しかった。日本に帰国するかどうかを決めるという目的もあった。母は私が帰国することを希望していて、アメリカで大した仕事もない私の生活を常に心配していた。”お金はあるの?健康保険はあるの?おまえ一人の生活位、日本だってどうにでもなるよ“、などなどと。日本に帰るかどうかはっきり決められないまま、またアメリカに帰って来た。恋人もいなくて寂しかったが、アメリカで暮らすことの魅力も捨て去りがたかった。「日本をいったん出ると、大抵の日本の女性は日本に帰りたくなくなるんだって・・・」アメリカに住む私の周りの日本女性達は言っていた。若い女性にとって、日本は何かと生き難い国だから。

(続く)

“★42年間のアメリカ生活、そして帰国 Part2” への5件のフィードバック

  1. ひさえ より:

    「飾らず、内面的に掘り下げて生きる娘に人生を学ぶ事が多い」と書き残したおかあさん、すごい。娘を再び見送るさびしさをうたった短歌が、短い分、感情が凝縮されていて、涙がでます。わたしの母も、わたしが里帰りを終えてアメリカに帰るとき、涙こそみせなかったけれど、トイレに隠れてでてこないということをくりかえしましたっけ。

    外国でくらすということは、濃密な人間関係なしにいきるということで、それが開放感にもなるいっぽうで孤独と背中合わせですよね。意思疎通がそこそこできるようになっても、英語では自分を十分に表現できないし、そこまで自分に興味をもって話をきいてくれる相手もいない。お母さん譲りの感受性と文才をもったスノーベリーさんが、アメリカでは自分の個性を発揮する場があまりなかったのではと察します(私も同様です)。日本に帰って、ご家族と友人たちの情愛で潤い、水をすって生き返った植物のようになって、再び存分にいきてください。

     

  2. スノーベリー より:

    ひさえさん、簡潔、適格なコメント有難う。私が言いたかったことを代弁してくれている気がしました。私はまさに今「水を得た魚」の表現がぴったりの気がします。日本人の人を気づかう細やかな感情を、日々を共に過ごしている姉から感じています。銀行、市役所、図書館、ショッピング、クリニックくらいしか行ってないけど、日本人の丁寧さに感心する毎日です。アジア人であること、英語をアクセントで話すことなどで、アメリカでは正当に扱われてこなかったと今感じます。(まぁ、これは私の性格にもよるとは思いますが。)自分と同じような体系の人たちに囲まれ、「痩せていて、小さいと人」思われないこともいい感じがします。アメリカ人にこんなことをいったら人種差別者だと非難されると思いますが。図書館には読みたい本がたくさんあり。洋服も靴も私に合うサイズがどこにでもあります。食べ物はおいしいし、TVも面白い番組がたくさんあり、聞いていることが全部解るのもいいです。

  3. スノーベリー より:

    若い頃は、日本の周りの目がうるさくて、特に性的マイノリティである私は日本から逃げ出したい気持ちが強かったと思います。アメリカでは解放感があり、ごく初期の頃はまるで自分が生まれ変わったような感激がありました。でも文化や言葉の壁が大きく阻んでいることが、年月を経て解かってくるんですね。今、年をとった外国帰りの私には、近所の人も一歩距離を置いていて、今のところ、うるさいことを何も言ってこないことも嬉しいです。今日本をとてもフレッシュな目で見ています。

  4. higa より:

    スノーベリーさん、れ組通信のご案内ありがとうございました!
    Part1もPart2もとても興味深く読ませていただきました。私は口下手(そして文章下手)なので、スノーベリーさんの鮮やかに書かれたアメリカ生活と一時帰国の文章に感嘆しながら読み入りました。続きも楽しみにしています。

    • スノーベリー より:

      higaさん、コメント有難うございました。コメントが入っていることに今日やっと気づきました。お返事を遅くなってすみませんでした。まとまりの無い文章になってしまいました。次に何を書くかの構想もなく書いてしまったので、時間があちこちに飛んでしまいました。次はもう少し、まとまりのある文章を書きたいと思っています。今後共よろしくお願いします。

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