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22年08月06日

★カミングアウト・ストーリー Part 4

スノーベリー

 手紙によるカミングアウト(Part3からのつづき)

 

すぐ上の姉から返事が来た。「・・・私も親しい友達が他の友達と親しくしたりすると嫉妬を感じたりすることがあります。私だけの友達でいてもらいたいと思うからです。あなたが久美子さんに感じた気持ちは特別な気持ちではなく、若い女の子同士によくあることなんじゃないかしら?いい友達になって欲しいけど、世間で言うような関係にはならないでね・・・」他の二人の姉や母が言ったことを纏めると、私は女だけの姉妹の中で育ったから女の人といることに慣れていて、女性に憧れたり姉妹のような親しみを感じるけど、それはまだ私が大人になっていないからでそのうちだんだん変わっていく、男の人にも興味を持つようになるというようなことだった。私は13,4歳の少女ではなく、もう19歳にもなっているというのに。私の家族は私のことは腫物に障らないように丸く収めておきたいと思っているようだった。

 

 

久美子の家を訪問

 

3月も終わりに近づいた日、久美子の家を訪問した。彼女の家は旧家らしく土蔵のある大きな家で一階は広い居間と座敷と祖父が寝ている部屋と、他にも部屋があり、二階に久美子の部屋があった。二階には使ってない部屋が幾つかある様子だった。庭には立派な池もあった。私の家よりずっと豊かだということが一目瞭然だった。高校生の妹が母親と東京へ出かける時には、父親と祖父が残った家の家事を久美子が賄っていた。父親への言葉遣い、態度にも私の家には無い家父長的な臭いがした。病臥の祖父がよく部屋から久美子を呼び用事を言いつけていた。久美子はまるで主婦のように家の中を甲斐甲斐しく動き廻っていた。

 

久美子の部屋で炬燵に入りながら二人で過ごす。時々足が触れて慌てて引っ込める。旅行したい場所について話していた。地図帳を広げ場所を探す。二つの顔が自然と近づく。互いに感じ合う強いエネルギーが行き交った。無言で見つめ合い、それから目を逸らした。その夜は泊まることにした。久美子は夕食の準備で台所に降りていることが多く、時たま二階に上がってきてお茶を運んでくれたり、私と過ごしていると祖父に呼ばれたりしていた。久美子が布団を敷いた。寒い雪国の慣習で足を炬燵に入れて眠れるようにと配慮したので二つの寝床には段差があった。私には期待があった。久美子の体に触れてみたい、久美子に抱かれてみたいと言う気持ちがあった。だがどうやって行動に移していいか分からなくて、久美子寄りの手を彼女の方に伸ばして彼女の手が私の手を見つけてくれることを期待しながらいつしか眠りに落ちた。

 

朝、洗面所で顔を洗っていると久美子が私の後ろの方でタオルを持って立っていた。最初何をしているのかと思った。父親の朝食の支度もあることだし忙しい時間なので悪いと思って「タオルはここに置いて向こうに行っていいわよ」と言った。久美子はちょっと悲しそうな顔をしてタオルを置いて去った。二階の久美子の部屋に戻り私は本を読んでいた。久美子が階段を上がって来て部屋に入らないで廊下から窓の外を見ている。しばらくすると私の背後に座って何か悲しそうな様子をしていた。「何か私がしたことで気に障ったことがあったの?」「そういう訳じゃないけど・・・タオルを置いて行っていいと言われたことが悲しかったの・・・タオルを雪江さんが必要な時に手渡したかったの・・・」私は大正だか昭和初期の恋愛小説の中の若い男子学生に自分がなったような錯覚を一瞬感じた。今でもこんな風に思う女性もいるのかと久美子の愛情に触れて嬉しい気持ちと、男性に尽くす古風な日本女性を久美子の中に見た思いで複雑な気持ちだった。

 

 

久美子からの緊迫した恋文

 

久美子の家から帰った後、今までとは様子が違った緊迫した手紙が来るようになった。「・・・まだ雪江さんが側にいるようであなたの座っていた所を見てしまいます。あなたが使ったコップもそのままにしてあります。母が帰って来たら怒られるような状態ですが、もう少しこのままにしておきたいのです。あと二日間汚いようだけれどあなたと私の部屋にしておかれる・・・」久美子は毎日のように手紙を書いて来た。私が上京する日が近づいて来ていた。「・・・あなたと過ごした夜、私はあなたの手に触れたいと思って私の手で探りましたが、触れることはできませんでした・・・」二人とも同じことをしていたことを知って、あの時どちらかが、もう少し積極的にでることができたらと悔やまずにはいられなかった。私の両親が結婚前始めてのデートを試みた時のエピソードが思い出される。

 

1943年(昭和18年)の秋、母は父より二駅先の駅で汽車に乗った。父が乘る駅に汽車が着いた時、母は人に見られたくないので窓から顔も出さずじっと耐えた。父は乗っていないと思って、その汽車に乗らず家に帰ってしまい、たった一度の逢引も果たせず結婚した。母は73歳の時、その時のことを情緒豊かな短文に纏めた。私たち娘はその話を聞く度に母に質問した。「お父さんも何でもっと探さなかったの? 簡単に諦めて帰って・・・デートもしないで手紙だけで心が通うの?・・・」両親が会えなかった話は笑い話として我が家で語り継がれた。周りには兵士として戦場に出ている同世代の青年達がたくさんいたし、逢引などいう浮いたことが大っぴらにできない世情だったから、父が母を探し回るなどいう一目につく行動を取りたくなかったのだと思う。今の若い世代の人にとって私と久美子がその夜行動を起こせなかったことを笑うだろうと思ったら、ふと両親のことが思い出されてきたのだ。

 

久美子の手紙は続く。「・・・私達はもう友達の境を超えています・・・あなたを好きだから欲しいからと言って求めたらあなたが傷つき去ってしまうから私の感情は捨てた方がいいのです。でもこのまま別れるなんて悲しいことです・・・あなたを欲しいという気持ちといけないという気持ちが重なり合います。毎日何も手につきません。4月12日までに自分の気持ちを落ち着けられるか心配です・・・前からあなたに聞きたかったことがあります。思い切って聞いて見ることにします。私をどの程度まで許してくれますか? 友人として? 同性の恋人として?・・・」久美子の激しい愛情表現に胸を轟かせたり、当惑したりしながら私は返事を書いた。「・・・私はあなたを同性の恋人だと思っています。私達は最初から友情だけで結ばれた関係ではありませんでした。人類始まって以来脈絡と続いている男女の恋愛と同じ感情が私達の間にはしっかりとあります。それは二人共感づいていることです。私はあなたに惹かれています。性的関係になることに迷いはありません・・・私からどういう風に切り出したらいいか分からなかったけど、あなたから言ってくれてありがとう。感謝しています・・・東京に帰る前にもう一度私達にチャンスをあげましょう。私の家にあなたを呼びます。来て下さい・・・」

 

 

我が家で

 

駅まで迎えに出た。駅からバスに乗った。混んでいて席が二つ空いていなくて運転手のすぐ後ろに二人立ちステンレスの棒に掴まった。その手でお互いの手を握り合った。私達の気持ちをすべて手の中に託して愛情を確かめ合った。手と手が何と多くのことを語り合ってくれるかを知った。バスの中で無言のうちに私達は二人の関係が恋人同士へと移ったことを確認し合った。

私の家は久美子の家に比べて小さくてみすぼらしいので彼女を私の家に連れてくるのはちょっと恥ずかしかった。しかし母親のセンスの良さで家の中は田舎の隣近所の家より、いつも綺麗に整頓されていた。生け花の趣味がある母が、庭の草花だけでなく山からも材料を採って来て小枝も加えて草花を品よく生けていた。この地域は農家の家が多く当時の農家の家の中には農作物や野良着などが雑然とあることが多かった。商売をしている家は店の品が部屋にまで積まれていたりした。私の父は公務員だったので母は整頓が楽だった。

久美子と近くの川の土手まで散歩した。雄大な山の麓にひらけ、山から川が村から村を縫って流れ降りてくるこの地の風景は美しく私は誇りにしていた。まだ雪が残る土手の上に立ち冷たく爽やかな春の空気を吸い、久美子と「花」を歌った。一緒に歌うことは私達を親密にした。久美子はソプラノの綺麗な声をしていた。 (つづく)

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