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22年06月18日

★カミングアウト・スト-リー  Part 2

スノーベリー

東京での生活

 

共学の大学を選んだのは、まだひょっとしたら私は男性にも興味を持つかもしれないという、自分の中で曖昧な部分があったからだ。他の人に自分のセクシャリティについて語ったことが無いのだから, 自分のセクシュアリティに関して混沌としているのは当然だったろう。私は6歳上の長姉と東上線沿線の駅に近い4畳半のアパートで暮らしていた。他の二人の姉も同じ駅のやはり4畳半のアパートに住んでいた。トイレは共同で、お風呂は無くて銭湯に行った。電話も共同電話を使っていた。まさに“神田川”(1973年に「南こうせつとかぐや姫」が歌いヒットした日本のフォークソング)の世界だった。あの歌の場合は3畳間だったが。部屋の入口付近に小さい流しがついていて、コンロが一つあるだけ。冷蔵庫もなかった。よくあんな狭い台所とも言えない場所で料理をして住んでいられたものだと思う。1969年頃、地方から出て来た若い人達の一般的な暮らしはこんな風だった。

 

姉妹の中で大学に行ったのは私だけだった。次姉と三姉は高校卒業後、専門学校に一年位通って就職していた。長姉が一番苦労した。高校卒業後、東京の下町の町工場の事務員として就職した。私が一番恵まれていた。私が高校生位になると父は要職に就いて経済的に少しはゆとりが出てきた。父は高等小学校*(下に説明)しか行ってなくてせめて中学(旧制)に行きたかったという学歴コンプレックスをずっと持っていた。だから娘の一人くらい大学へ行かせてあげたいという願望があった。母も高等小学校しか行ってなくて、女学校に行った人をいつも羨んでいた。両親とも口を揃えて「学歴が無い」と言う言葉をよく言っていて、それを聞いて私は育った。

(*明治維新から第二次世界大戦勃発前の時代に存在した、後期初等教育・前期中等教育機関の名称。尋常小学校卒業(6年間)後2年間教育を受ける。尋常小学校の修業年限期間だけが、義務教育だった。)

 

    初めてのデート

 

高校までは、ほとんどもてなかったが、大学生になってからデートの誘いがかかるようになった。初めてのデートは二つ年上のクラスメートの佐野という人だ。「千駄ヶ谷のホームで6月7日、1時に君を待っています。来なかったら一人寂しく・・・」という短い葉書が私のところに届いた。私は佐野という人が誰なのか見当もつかなかった。クラスメートは50人以上いるのだ。無視しようとしていたら、姉達に会いに行けと熱心に勧められて行って見ることにした。18歳にもなって、一度も男性とデートをしたことが無さそうだし、何とかチャンスを作らせようと姉達は思ったようだ。私は姉達と仲がいいからと言って、まさか女性が好きだなどとはとても言い出せなかった。行きたくもなかったが佐野に会いに行った。彼は私が来たことで、すごく嬉しそうにしていた。私はバツが悪かった。彼が誰かも分からないのに来てしまったことが。二浪したとかで、どこか若々しくない感じの、学生と言うよりはサラリーマンと言った感じの青年だった。バイトばかりしていると言っていたから苦学生だったのだろう。見かけはぱっとしなかった。

 

私にも男性の好みがあるとしたら好きなタイプではなかった。真面目な性格で武者小路実篤の「人生を如何に生きるか」の名言の一部を自筆で書いて送って来たりした。彼はフォトグラフィーに興味があって、私に被写体になって貰えないかと言った。こんなことは今までなかったので承諾した。自分で暗室も持っていて、写真にするまでのすべての過程をやるのだと言った。写真をとりに青春映画「キューポラのある町」(吉永小百合・浜田光男主演)が舞台になったという彼が住んでいる埼玉県にある町まで電車に乗って行った。その時彼のアパートに写真の件でちょっと寄ったことがあった。男性のアパートに寄ることには抵抗があったが、クラスメートだし、大丈夫だと思った。でもどこかで緊張していた。彼はそれが分かったのか、冗談にしても、自分が今私をレイプしようと思えばできるのだというようなことを冗談めかして笑いながら言った。私は嫌な気持ちになった。男の人のアパートになどやっぱり来るべきでなかったのだ。

 

私は男性から性的虐待やレイプもされた経験は無い。東京に出て来てから、電車の中での痴漢は何度か経験したし、道を歩いていて、「太いな(足が)」とか「小さいな(胸が)」とか言葉でのセクハラは何度か受けたことがある。男性と二人きりになることに本能的に警戒心がいつもあった。男の性は一方的、攻撃的で独りよがりである。この男権社会、女性蔑視の社会に女として生まれた私達女性は、この社会が安全な場所でないことを知っている。それはもう子供の時から自然と分かる。その極限が戦争などの非常時に最も露骨な形で現れる。女性は戦時には野獣のようになった兵士に強姦や輪姦されてきた歴史があるし、今も世界中で続いている。

 

   ある決断

 

私もストレート(異性愛)の同年代の女性たちがするように声がかかると男性とデートにでかけたりしていたが、心が満たされない感じがあって孤独を感じていた。女性が好きであるという事実を認めなければならないところに追い詰められていた。このままにしていたら精神的におかしくなってくるのではないかと思った。私は社会性が無く、友達を作るのが苦手だった。一体この世の中に私のような女の子はいるのだろうか。女でありながら女を好きだと言う女。もしどこかにいるとしたら是非会ってみたい、彼女達が何を考えているのか聞いてみたい、話してみたいという切羽詰まった気持ちになっていた。

 

そんな時浮かんできたのが、高校の時に好きだという気持ちを抱いた久美子と、もう一人の陽子だった。彼女等に手紙を書こうと思いついた。それ程までに私は孤独感を感じ、切迫していた。高校の事務局に問い合わせ彼女等の住所を送って貰った。二人には一度も話しかけたこともなく彼女等にとって、私は記憶にも残っていないかも知れない、そういう他者にむけて私は手紙を書こうとしているのだ。臆病で内気な私にとってはものすごい冒険だった。しかし私の中で、彼女等もきっと私のように「女の子が好きな女の子だ、潤んだ目で他の女の子を見る女の子」だと思った。何か他の人とは違うもの、同性を好きな同士にしか分からない視線、食い入るように見つめる目、同類意識のようなものを感じていた。特に久美子に対してそれを強く感じていた。もうどうにでもなれという気持ちで二つの手紙をポストに入れた。手紙の内容は、高校生の頃に憧れていたこと、同性を好きになる感情は一過性の少女の感傷にすぎないものだろうかという疑問、会って愛について人生について語ってみたい(今思うとこんなことを書いたことが恥ずかしいが)というようなものだった。何だか一昔前の女学校の女生徒同士のSの関係の手紙内容になってしまったような気がする。普通なら高校生の女の子がするようなことを私は2-3年ずれて、やっていると母が言っていたことを思い出す。 

 

陽子から返事が来た。いきなり見ず知らずの人から手紙を貰って驚いたこと、自分は同性に対してそういう気持ちを抱いたことが無いことを書いて来た。今東京に住む彼女は仕事先の電話番号をくれた。そしてよかったら一度会って話してみたいと書いてあった。彼女の手紙を読んで、私は自分のしたことが急に恥ずかしくなって、とてもお会いできないというような返事をだした。彼女とは後にも先にもそれっきりになってしまった。

 

 

                 久美子からの手紙

 

久美子に宛てた手紙の返事はまだ来なかった。しばらく憂鬱な日々を送っていた。久美子は果たして私に返事をくれるのだろうか?手紙は彼女の元へ届いたのだろか?そして、11月も終わりに近づいた頃、ついに久美子から手紙が来た。その手紙は他の郵便物と混じって、無造作に玄関のすぐ傍の郵便物用の棚に置かれていた。私にとってはとても大切な手紙だった。丁寧な筆記で私の名前と住所が書かれていた。手紙の字も綺麗な筆記だった。久美子はこの手紙を書くために相当構想を練って書いたのだと思われた。内容は私の心配に反して好意的な内容だった。「・・・私の方は祖母が今月の始めに亡くなり何かと落ち着かない日々を過ごしていてお返事が遅れてすみませんでした。・・・高校時代あなたに一言も声をかけられなかったことが残念でなりません。・・・私も女の人は好きです。特にあなたのような素直な方は。・・・高校生の頃は可愛いい人を好きになり、人生に絶望し、死を考えたこともありました。・・・私は今自宅で親と住みながら洋裁学校に通っています。・・・冬休みには帰って来られるのですか?・・・是非お会いしたいです。・・・」早速彼女に返事を出し冬休みに会う約束をした。

 

思い切って一つの行動を起こしたことによって、私の人生に何かが起き始めているのを感じた。           (つづく)

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