★行って来ました「ストーンウォール50周年」(その1)
若林苗子
★6月25日~7月3日ニューヨークの「ストーンウォール50周年」に行って来ました。
今から50年前の1969年6月28日、ニューヨークの「ストーンウォール・イン」という性的少数者が集まるバーに警察が手入れに入ったことから暴動がおき、アメリカの性的少数者(LGBTQ)の解放運動が始まり、毎年6月にはLGBTQ(注1)の「レインボー・プライド」が行われている。1992年5月「第二回アジア系レズビアン・ネットワーク会議」(注2)が日本で開催され、わたしも主催者の一人だったのだが、この会議に参加した米国のアジア系レズビアンの尽力で、わたしは1994年の「ストーンウォール25周年」(注:3)は、主催者からの招待枠で参加した。LGBTQの権利を求めてニューヨークの町を「100万人の大行進」したこと、後ろを振り返ったら沢山の参加者で人、人の波だったことに感激し、沿道で応援している人たちの数の多さにも驚いたことを鮮明に覚えている。今回、その時に知り合ったニューヨーク在住の友人のふみこさん(れ組通信に何度も投稿してくれた人です)が誘ってくれたので、れ組の友人、みのりさんと行くことにした。以下報告です。(注1、2、3の説明はその3を見て下さい)
6月25日(火)午後5時近くに成田を立ち、13時間のフライトで、同じ25日夕方4時半頃ニューヨーク、ジョン・F・ケネディ空港へ到着。直行便とはいえ、13時間のフライトは長かった。空港には、ふみこさんが迎えに来てくれていて、助かった。バスと地下鉄を乗り継ぎ、ふみこさんとパートナーのエレノアさんの家があるクイーンズ地区のジャクソンハイツへ。地下鉄の駅から歩いて、10分位か、古い落ち着いたアパートに到着。ここから7月3日までの9日間、二人にはとてもお世話になりました。
昨年冬頃東京でも「NY ジャクソンハイツへようこそ」(フレデリック・ワイズマン監督)
http://child-film.com/jackson/というドキュメンタリー映画が上映されたが、ここジャクソンハイツは多種多様な人種・言語の人々が住んでいる地域でとてもにぎやか。ラテンアメリカ系、アジア系の移民の人たちが多く、店も沢山ある。町を歩いても、バス・地下鉄に乗ってもスペイン語が耳に入ってくる。ふみこさんが、夕食に玉子焼き、餃子、サラダ等々を出してくれてまずは乾杯。長旅、お疲れ様!! 柿ピーをつまみながらおしゃべりに花が咲く。ニューヨークは、わたしたちが行く前は雨模様だったらしいが、この日は気温が高く、暑い。恐らく30度くらいはあったのでは。そしてこの日から帰国する7月3日まで、連日30度以上の暑い日が続いた。
27日(木)「ストーンウォール50周年記念 展覧会」
昼前11時~12時、ジャクソンハイツのLGBTQセンターでふみこさんとエレノアさんが参加しているシニアのLGBTQ向けの体操のクラス(LGBTQ以外の人も参加できる)があるというので、一緒に参加。週に2回やっているとのこと。先生はゲイ男性。参加者は全部で20人位か。シニアのメンバーたちとみっちり一時間身体を動かしたのだが、楽しかった。ふみこさんによれば、ここニューヨーク市全体にこうした高齢者向けのクラスがいくつもあり、充実していて、ハーレムやら、またダウンタウンやらと素敵なワークショップなどがあれば、何処へでも、そこら中に行っているとのこと。いいな~、うらやましい。
体操が終わった後は、地下鉄に乗り、マンハッタンのソーホーへ。「ストーンウォール50周年」記念の二つの展覧会、Photography After Stonewall(ストーンウォール後の写真展)とArt after Stonewall 1969-1989(ストーンウォール後のアート作品)を見た。アート作品では、ケイト・ミレット(「性の政治学」の著者)の大きなインスタレーション作品「Approaching Futility(無駄に近づく)」(1976年)がまず目に入った。檻の中にはしごが立てかけてあり、そのはしごの上部に一人の人物が立っている。回りを檻に囲まれ、はしごを登っているのだが、そこからも外には出られない、閉塞状況をあらわしているようだった。
28日(金)「レズビアン歴史資料アーカイブス」へ
この日は、11時に出発。みのりさんとブルックリンの「Lesbian Herstory Archives(レズビアン歴史資料アーカイブス)」へ。午後1時からという。12時頃には到着したので、あまりお腹がすいていなかったが、その後の予定もあるし、食べられる時にすまそうと近くのレストランへ。みのりさんは、ビーフのホットドック、わたしはパンケーキと紅茶を頼んだら、ものすごい量が来た。ホットドックには山ほどのフライドポテトが付き、わたしのパンケーキは何と大判3枚もある。アメリカらしい。努力して2枚食べたが、1枚は残した。
1時前に店を出て、アーカイブへ。住宅街にある2階建ての一軒家で、入口や玄関にレインボー・フラッグがあり、すぐ分った。中に入ると、わたしと同年代のスタッフが気持ちよく出迎えてくれた。何とわたしも参加した2012年ボストンで開かれた「OLOC(Old Lesbian Organizing for Change―社会を変えるオールド・レズビアン https://oloc.org/)の集まりにその人も来ていたそうで、わたしのことを覚えていた。れ組通信のバックナンバーと「第一回アジア系レズビアン・ネットワーク(ALN)会議報告集」を寄付したいと持っていったら、心よく受け取ってくれて、うれしかった。
このアーカイブには、様々なレズビアンの資料・レコードや物たちが沢山保存されている。若い学生のインターンたちが、パソコンで資料の整理をしていた。1974年に始まったこのアーカイブは最初はメンバーの家から始めたが、1991年にこの建物を多くの人たちの寄付で買い取り、運営は寄付で成り立っている。この場所が存在すること、本当に素晴らしい!!わたしも日本のレズビアンの様々な資料などを持っているので、東京でもアーカイブがあったら良いと思うと言ったら、最初から独立したものを作るのは大変だから、すでにあるところに同居させてもらっても良いのではとアドバイスを受けた。なるほど。
29日(土)ダイク・マーチに参加
昼はふみこさんたちから聞いたハドソン川近くの再開発地区(ハイライン)へ行く。斬新な建物や大きな少女像があった。丁度ランチタイムだったので、新しいビルのアジア的レストランに入った。日本と韓国の料理のミックス。運ばれてきた料理はセットになっていて、どんぶりは、混ぜご飯に韓国の味付け焼きのりがついていて、それに野菜かき揚げの天ぷら、豆腐風の小鉢、みそ味ではない汁物、あとサラダか?結構客が入っていた。他のテイクアウトできる店でも、色とりどりの手巻き寿司のパックが沢山並んでいて、今ニューヨークで日本食やアジア系料理がはやっているのを実感した。
ランチの後、数多くの観光客がいるこの場所から地下鉄でニューヨーク公共図書館へ。わたしが今回の旅でぜひ行きたかった所。25年前にも行ったが、当時性的少数者の可視化をうたった「Becoming Visible(見えるようになる)」と書かれた大きな旗が垂れ下がっていた。今回は玄関の両側にカラフルな大きなレインボーの旗が垂れ下がってきて、とてもきれいだった。2階では、「ストーンウォール50周年」記念の展覧会をやっていた。閲覧室を垣間見ると天井の壁画が素晴らしい。4時には、隣のブライアント公園に行かなくてはならないので、ゆっくりできない。一階のショップでカードを数枚買う。なんと、黒地に白い字で「We should all be feminist=わたしたちは皆フェミニストにあるべきです」」というカードと布バッグを売っている。これはジョークとしても、スゴイ!!わたしはあまり「~べきです」というのは好きではないが、デザインが良く、気に入ったので早速カードを買った。(帰る前の日に又行き、バックも買ってしまった。)
4時15分にブライアント公園でダイク=Dyke(昔レズビアンの蔑称だったが、レズビアンたちがあえてそれを使っている)・マーチに参加する人たちとガートルード・スタインとパートナーのアリス・B・トクラスの像の前で待ち合わせ。ベンチには、すでにお仲間らしき高齢の女性が一人座っていた。声をかけると、エレノアさんの友達だった。大きいレインボー・フラッグを持った若い女性も座っていて、隣が空いていたので、わたしも座り、声をかけたら、ブラジル出身のレズビアンで友達と待ち合わせていた。ふみこさんとエレノアさんも到着。続々と年を重ねたレズビアンたちが来る。雰囲気はれ組の仲間によく似ていて、なつかしい。皆からだのどこかにレインボーのサインを付けている。Tシャツ、靴下、マフラー、とてもカラフルできれいだ。
そして、いよいよダイク・マーチの出発の時間が近づく。ニューヨーク公共図書館のわきの5番街が出発地点だ。ダイク・マーチは1993年から始まり、今年は27回目とのこと。カラフルな衣装のレズビアンたちが一杯並んでいる。わたしはみのりさん、ふみ子さん、エレノアさんたちと一緒に並ぶ。少ししたら、ダイクス・オン・バイクスに出場するでっかいバイクに乗ったレズビアンたちが、バイクを押して登場。ものすごい迫力で歓声が上がる。これは名物なのだ。それから、車いすに乗ったレズビアンたちが介助のメンバーと共に沢山来た。素晴らしい。車いすは全部で30台以上はいたと思う。50台位いたか。壮観だった。バイクの後ろは車いす。そしてマーチが始まった。
★以下ダイク・マーチのサイトより https://www.nycdykemarch.com/
The New York City Dyke March is a protest march, not a parade.
<「ニューヨーク市のダイク・マーチは抗議の行進であり、パレードではありません」
私たちのマーチは合衆国憲法修正第一条によって保障された抗議のデモンストレーションであり、許可やスポンサーなしで行われます。 私達は私達の権利、安全および可視性のための闘いは私達自身の中で組織しなければならないことを認識しています。
毎年何千ものDykesが私たちの美しく多様なDykesの生活を祝うために街を訪れ、私たちのコミュニティ内でのDykesの存在を強調し、学校で、職場で、また職場での差別、嫌がらせ、暴力に抗議しています。ダイクであると自認した人は誰でも、性別による表現またはアイデンティティ、出生時に割り当てられた性別、性的指向、人種、年齢、政治的帰属、宗教的アイデンティティ、能力、階級、または移民ステータスに関係なく行進することができます。
私たちは、支援者の人たちに自分がダイクだと自認して歩いている私たちのマーチを歩道から支援し、または最終地点のワシントンスクエアパークでの私たちの抗議の最高潮時をともに祝い、私たちのスペースを尊重して欲しいです。>
★ダイク・マーチを歩いて本当にうれしかった。様々な年齢の沢山のレズビアンたちと共に歩くことの幸せをかみしめた。歩き出してすぐ、後ろの方でリズミカルな沢山の太鼓の音が聞こえてきた。近づいてみると、カラフルな衣装の10人以上のドラマーが歩きながら、一斉に太鼓をたたいているのだ。先頭には2人の先導者が指揮をしている。この太鼓の音がとても良いのだ。気分が一気に上がる。すごい!!
5番街は全部はマーチのために開放されていないので、半分の車線は車が通っている。だから、交差点に差し掛かると、反対側の道路から車や人が入ってこないように、警官もいるのだが、ダイク・マーチのメンバーたちが(皆おそろいの今年のダイク・マーチの黒地にピンクの図柄のTシャツを着ている)マーチをガードしてくれたのだが、その様がなんともカッコよい!!そうそう一大発見。マーチは最終地点まで途中で一度も分断されることなく、一つの塊で最後まで歩いた。これって、当たり前のことだが、数年前から日本では今は違う。デモやパレードで一つのグループを小分けにして歩かせるのだ。ヒドイ。
沿道のビル、商店、アパートの窓から虹色のレインボー・フラッグを垂らしている所、手を振る人たち。暑いが天気が良いし、マーチ日和。夕方5時過ぎに出発し、1時間半以上歩いた時に、左側の歩道に歓迎のブラスバンドが演奏してくれてこれが又良かった。うれしかった。そしてさらに進むと右手のビルの合間に高いねむの木が立っていて、ピンクの花が咲いているのを見つけた。ビルだらけの5番街にも自然が目に入り、ほっとする。
そしてやっと、最終地点の「ワシントンスクウェア」に到着。7時過ぎだがまだ明るい。公園にはすでに参加者たちが続々と入ってくる。ものすごい数の人達だ。今年のダイク・マーチのTシャツを買い、夕食場所の「サイゴン・カフェ」(ニューヨーク市立大学の近くの広いカフェ・レストラン)に行き、マーチの他の参加者たちとベトナム料理を食べた。帰り際、隣の大きなテーブルにアジア系の女性たちが10人以上いた。ふみ子さんが話しかけると、全員フィリッピン系の人たちとのこと。やはり各地から集まり、ダイク・マーチに参加したようだ。この人たちとももっと話したかったが、時間的に遅くなり、帰宅の時間だったので、サヨナラをした。地下鉄を乗り継ぎ、やっと帰宅。疲れたけれど、行って良かったダイク・マーチだった。
<ダイク・マーチの写真を見られるサイト>
https://gothamist.com/2019/06/30/photos_dyke_march_2019.php/gallery?image=33
(その2に続く)
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